Little AngelPretty devil 
      〜ルイヒル年の差パラレル 番外編

     “鬼はそと”
 


以前にもどこかで話したことがあると思いますが、
今現在広まっている節分の儀式のあれこれは、
本来、大晦日の厄祓いという意味合いから行われた“追儺”の儀式が変じ、
冬を見送り、春を迎える頃合いへずれ込んだとされる“鬼祓い”の儀式。
豆を蒔くのも後世になってからで、
本来は宮廷の催しとして、桃の枝の弓で葦の矢を射ったとか。

 「種蒔きの時期へズレたからでしょうかね。」
 「かも知れんな。」

あと、恵方巻きなるのり巻きを食べる風習が、近年爆発的に広まっており、
平成生まれ…は言いすぎかな? 21世紀生まれの世代あたりは、
豆を年の数食べることよりメジャーだと思ってるかも知れませんが。
違いまっせ〜?
こっちは大阪の海苔問屋さんが打ち出した
キャンペーンが発祥ですえ〜?

 「実際には無かったってワケでもないらしいがな。」
 「そうなんですか?」
 「ああ。
  どっかでそういう習わしがあったってのを
  引っ張って来たもんじゃあるそうだ。」

だから、平安時代のお人らが、
平成の世の話を評すんじゃないってば。(苦笑)




     ◇◇


節分といや、
イワシの骨をヒイラギにくっつけ、
それを門口に張り出すというおまじないもありますね。
鬼は棘のあるものや細かいものが苦手だそうで、
そこから来たものだと言われておりますが、

 「でもイワシって海の魚ですよね。」
 「ああ。」
 「ということは、
  京の都でまず広まった話じゃないってことでしょか。」

京都で魚といえば、
川魚の鮎や琵琶湖の鮒、生命力が強いハモと来るほどに、
海とは接してない地域。
防衛上そうした方がいいとしたとはいえ、
宗教上から肉食も禁じ始めていた頃合いだってのに、
これではタンパク質の摂取も難しかろう。
……じゃあなくて。

 「そうかも知れんがな、
  そも、此処いらが昔々から開けて栄えてたわけじゃなし。
  しかも、
  そういう風習は大陸から伝え聞いたのを真似したもんが多いから。」

 「あ、そうですね。」

平安京は奈良の次に都にされた土地だから、
前の都では南紀勝浦から献上されたる海の幸も多かったのかもしれないし、
七夕しかり、お月見しかり、中国王朝で催されていた行事を真似たもの。

 「加えて言うなら、
  京の都じゃあ金さえあれば手に入らぬものはない。
  イワシが食いたいと貴族や金持ちが言えば、
  商人らはこぞってより寄せようからの。」

ヒイラギというのも何とも今時じゃね?
尖ってるもんでいいならば、松でも構わんだろうによ、と。
まだまだ幼いお弟子さんからの
“なぜなぜなぁに?”にお付き合い下さったのも
彼にとっては片手間なお話。
王宮での“祈念祭”に使う弊をこさえて、さてと。
次はそれらとは別物だろ、
咒符用にと質のいい半紙を揃え始めるお師匠様であり。
こちらさんは、やはりそれらへ用いるものとして、
榊や樒(しきみ)を束ねておいでの書生くん。
余計なこと下らないことを訊くなと機嫌が悪くなるでもなく、
鼻歌交じりに手を止めぬままでおいで。
何でも御存知だし、応用も利くほど思考の深い蛭魔なのへ、
はややぁとお口が開いてしまってる模様。

 『こうまで何でも御存知なのだから、
  学校を開いて塾長になられればいいのに。』

神祗官様のお屋敷の書生でもある、
幼なじみの陸くんにこぼしたこともあった瀬那だが、

 『う〜ん、そういうものじゃあないと思うよ?』
 『あわわ…。』

ちょうど居合わせておいでだった紫苑様が聞いてたようで、
濡れ縁でひなたぼっこをしていた
年下の可愛いどころたちへと交ざりつつ、

 『蛭魔が吝性(ケチ)だとは言わないが、
  自身の臨機応変へと
  使い勝手の言いように収納している知識だろうしさ。』

こちらはこちらで、棘こそない人柄ながら、
それでもやっぱり…あんまり能弁な性分なお人ではないけれど。
セナより腕白な陸くんが、すんなりと師事を授かってるほどに、
どこか深みのあるお人柄をしておいでで。

 『誰かへ何か教えるとなると、
  別な下準備や心掛けも要ることだしね。』

それだけ手間暇の要ることだから、
気分屋の蛭魔には勤まらないと思うよと。
何かまだ含みのありそなお顔で微笑っておいでで。

 “あれってどういう意味だったのかなぁ。”

玉串に下げる弊を折り折りしつつ、
少々気持ちが逸れていたものか、

 「…つっ。」

紙の端でこすったか、かすかながらも鋭い痛み。
しまった、穢れがついてしまうと、
まずは手を遠ざけ、立ち上がりかかったのだけれど、

 「どら、見せてみな。」

横合いから伸びた手が、ぐいと引き寄せたため、
あれあれあれと板張りの上でたたらを踏みかかる。
ぱふっと受け止めらたは、待ち受けていた感のあるお膝の上であり。
懐ろへと掻い込まれ、手元を矯めつ眇めつ眺められて、

 「ああ、ここんところだな。」

あんまり指を曲げなきゃあ1日もありゃあ塞がるぞと、
書生くんの小さなお手々の
人差し指の横腹をするりと撫でてから、

 「此処はもういいから、庭掃除にでも行って来な。」

但し、指は立ててだぞとからかうように付け足して下さる。
ああほらやっぱり、
身内や小さい者相手には、こんなにお優しいお師匠様なのにね。
世間からは小意地の悪い輩だの浅ましきものなぞと扱われるのが
どうにも口惜しいセナくんであるらしいのだが、

 『何だよ。
  それって、武者小路の惣領息子からは
  ちゃんと把握されてるんだろが。』
 『あ…。』

雪解け前にと、家の修繕にお越しになられた工部の武蔵さんから、
そうと意表をつかれるのは、もちょっと後日のお話で。


  好きが過ぎればついつい近視になるという、
  これもまたその一例なのかも知れません。
  そういうジレンマも邪気の一種なら、
  豆と掛け声で追い払うといいですよ?




   〜Fine〜  13.01.30.


  *しつこいようですが、平安時代の鬼追いは大晦日です。
   それに、立春も今の二月とは違ってたでしょうから、
   厳密にいやあ、今時の話題じゃないんですけれどもね。
   すぐ前の、葉柱さんとのお喋りの続きみたいになっちゃったかもです。
   大好きな人の長所は、やっぱり認めてほしいもの。
   そこが時々じりじりしちゃうセナくんらしいですvv


 めーるふぉーむvv  
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